風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その228+365+347)

『多くの経験を積み受容体を増やすことは、すなわち快楽の追求である』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 コレ、イジメじゃね?(挨拶@ガッシュ、“シン”の嵐)


 引き続き快晴の小春日和。インディアンサマーとも言う。ちなみに今調べてみたら、“小春”とは陰暦10月の異称とのこと。コレ、豆知識。
 何事も経験、ということを口にする自称・練達者がいるが、しかし観察している限り、これは、やってみなければわからない、という意味で使っている場合がかなり多い。一般に本来の意味は、やっておけば何かの役に立つこともある、ということだろうが、確かにこれは科学的にも正しい。
 新たな経験をした場合、脳はその新しい刺激を受けとめる受容体を形成する。受容体の多さはその人間の感性の幅の広さである。これが少ない人間は無感動で好奇心も薄くなり、また当人の主観としても快感というものを得難くなる。例を挙げると、一般に子供は辛かったり苦い食べ物(からしやわさびなど)は苦手とする(これは生物的本能らしい)が、大人になるとコレを好むようになる。これは何度もその食べ物を摂取することによって、新たな受容体が形成され快楽と感じるようになるからである。しかし苦手だからといって遠ざけ、そういったものを一切口にしようとしない人間は、いつまでたっても辛いもの苦いものを苦手とし続ける。結果、食に関しての関心が薄くなり、それ以上の受容体は形成されなくなる。


 もちろん受容体形成に伴う影響はそれほど単純ではない。ある経験をして、その際、得られた技術がどこかで役に立つ、といった直結的なことでないのだ。まったく無関係なことで形成された受容体でも、新たな経験を快楽と感じやすくさせたりもする。快楽はヒトの行動原理のひとつである。それを広げるという意味で、何事も経験、は正しい。