風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その227+365+347)

『あらゆるものには適正な寿命というものが存在する』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ライトノベルも引き伸ばしだらけ。そんな時代さ。(挨拶)


 朝から超快晴。気温もぐんぐん上昇し、この季節としてはやや暑いほど。草原や河原で午睡するには良い日だが、残念、そこまで暇ではない。
 千年二千年前と比較して人間の寿命はかなり長くなった。それだけが原因だとは言えないが、その結果として、やや生きることに倦んでいる風潮があるのは間違いない。“自分”という物語に飽きてしまって、終止符を打ちたくなるのである(実際に打つかどうかは別問題)。
 また、娯楽には流行り廃りというものがあり、適度な期間をもって終焉を迎えるのが望ましい。とうに見放されているにも拘らず、いつまでもしがみついているのは見苦しいだけで、さらに見向きもされない結果となるだろう。娯楽は消耗品なのであり、いつかは尽きるものだ。それを無理矢理に“文化”だとして遺そうとするのは感心しない。よいではないか、娯楽が娯楽として無為に消費されても。


 人の生を演劇という娯楽にしている事実がある以上、人の人生そのものを、娯楽である、とするのは真であろう(人生全てが何らかの使命を帯びたものと考えるには無理がある)。ゆえに人生もまたいつまでもしがみついて、見苦しく立ち振舞うのは望ましくないと考える。