風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その225+365+347)

『“遊ぶ”ということは別に悪いことでもなんでもない。あえて問題行動を挙げるならば、それは“何もしない”ことだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 素敵だ やはり人間は素晴らしい(挨拶)


 引き続き雨。日中も気温は上がらず、非常に寒々しい一日。雨は夕方には一時的に上がったものの、またすぐに降り出し、22時前には雷が鳴り出した。
 ニートやひきこもりが悪いことであるとされるのは、何一つとして社会に貢献していないという点であろう。もちろんそのように呼称される人たちの全てがそうだとはまったく思っていないし、実際にそうではないが、あえて責められるべき部分を挙げるならそういう点だということだ。別にニートやひきこもりであること自体は問題ではない。
 同様に、定職に就こうとせず、アルバイトを転々としている人間が快く思われないのは、おそらく大した志もなくフラフラ遊んでいる(と思われている)からだろう。こういった発想は高年齢層に多いが、定職に就くことこそが社会人として自立することだと思っている節がある。事実、アルバイト生活 = 不安定な生き方、と決め付け、雇用(就職口)を増やすことにのみ腐心し、フリーターでも安定的な将来設計を描けるようなシステム作りはほとんど顧みられていない(先送りにされている)。要するに従来のシステムを見直して改善することに対して怠惰なのだろう。
 話を元に戻すが、前述の“何もしていない”と後述の“遊んでいる”には大きな差異がある。前者は、何かに与えることも、何かから受け取ることもないが、後者はどちらも存在するということだ。遊ぶことで学ぶことがある、などという限定的で陳腐な話をしているのではない。ただ何かに触れる機会があるというのは“生きている”とことと同義だということだ。つまり、“なにもしていない”人間は死んでいるのと同じだということである。しかも生命活動を行って消費をしている分、死んでいるよりも性質が悪い。殺害処理するわけにはいかないので、まさに始末に負えないとはこのことである。


 どうもニュアンスが上手く通じない気がしてならないが、自らの貧困な文章能力を残しておく意味でもあえてこのままにしておこう。“書いてある”ことと“はっきりとは言及していないこと”を把握すれば何を言いたいのかは分かるはずだし…。