風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その202+365+347)

『Love&Peace。でも愛は争いを生み、そもそも平和とはなんなのか知らない者は多い』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ギリギリ崖の上を行くようにフラフラしたっていいけど、落ちても助けません。(挨拶)


 午前中は晴れていたが、徐々に雲が厚くなった。気温はそれなりに暖かい感じ。日没頃から雨が降り始め、そのままずっと降っていた。
 “平和”の概念を平和な世界に住んでいる人間に伝えるのは非常に難しい。それは不幸を知らない人間に“不幸”というものを教えることとほぼ同義だ。
 極端な例を挙げるが、例えば人が誰も老いない衰えない死なない世界で、誰もが物質的にも精神的にも満たされている世界で4大悲劇を上演しても、滑稽にしか映らないことだろう。多分、悲劇として扱われず喜劇として一世を風靡してしまったりするのではなかろうか。
 要するに前提が違うのである。平和な世界において、そうそう理不尽に人が死んだり傷つけられたりすることはない(その確率が非常に低い)。もちろんそういったことがまったくのゼロではないから、そういった状況の情報は伝わってくるし、そこから想像を働かせることはできるだろう。しかし所詮それは他人事だし、どんなに想像しても穴だらけのイメージでしかない。他人の経験を完全にトレースし、自身の経験にまで昇華できる人間は(ほぼ)いないだろう。


 ところで某休みすぎ漫画で、愛ゆえに他者を傷つける人間の利己的な愛は壊れている、と表現されている。神の視点からの論なので抗するだけ無意味なのだが、あえて言おう。壊れていない、正しい愛とはなんだ? 全人類に等しく財を分配する精神か? 現状、それをやれば全人類が飢え苦しむだけだ。ならば苦しむことが愛なのか。なるほど大抵の聖者が苦痛に耐えるのはそういう理由か。納得である。