風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その193+365+347)

『忘れる、ということは、その知識を必要としていないということだ。まあ、別に悪いことではない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 しかし微妙に強化の才能まであるのは幼稚な単純さの表れか。(挨拶)


 だいたい昨日と同じような気候。しかし雲は姿を潜めはじめ、風の匂いがまた少し変わった。秋雨の時期も過ぎ去ろうとしているのかもしれない。
 昨夜は実に久しぶりに自発的にTV番組(アニメ以外)を最後まで観た。だいたい1年半ぶりくらいだろうか。内容は小学校の教科書に書かれていることを問題としたクイズ番組。回答者は芸能人。
 多分、本来は芸能人の珍回答を見て笑うことを目的としているようだが、そんなことはどうでもいいので無視して問題を流し見ていた。9割くらいは解ったのだが、漢字の部首名や動揺の歌詞など、単純な知識を問う問題でいくつか躓いた。算数の計算式や理科の実験器具の名称など、実践的な学習に伴う問題はひとつも間違えない辺り、ただ覚えるだけの学習は苦手なのだな、と自己分析。そういえば中学の分野ではあるが、英語で単語や熟語用法、発音記号を答えさせられる問題は大嫌いだった。…チクショウ、あんな問題に何の意味があるんだ…。(広範な語彙を得ることに意味はあると思うが、その知識を問うことに意味はないだろう)


 不思議なことに5・6年生の問題はほとんど落とさず、3・4年生の問題を複数解らなかったりする。傾向として5・6年生の分野では社会の問題を落とさないのが大きい。5・6年生の社会では、歴史や現代社会などの一般常識を教えているから、一般的な社会人なら間違えようもないからだ(と思う)。