風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その192+365+347)

『個人の身勝手を制するのは、結局のところ集団の力だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 念能力診断によると、風鈴製作者は具現化と操作を均等に併せ持つ特質系らしい。(挨拶@その代わり変化と放出の才能はほぼ0に等しい)


 昨夜の夜半過ぎから再び雲に覆われ、朝から小雨が降り注いだ。14時過ぎくらいまで降り続き、その後はまた曇りに。気温は平均的で薄い上着を1枚着て歩くにはちょうどよいくらいだった。
 モンスターペアレント(ツ)という言葉がある。いわゆる自分の主張と要望を自制することなく、また論理性もな妥当性もないままに、嵐のように教師や学校側にぶつける困ったちゃんのことだ。
 今回はあくまでも教師・学校側に非のない場合について話すが、風鈴製作者の見ている限り、こういった人間のほとんどは、充分な社会活動を経験しないままに家庭に入ってしまっているか、あるいは現状の家庭内環境に多大な不満を抱えているようだ。前者ならば単に自らの欲求が通らないことを我慢できないのであり、後者ならば家庭内での鬱憤を格下(と思い込んでいる)相手に八つ当たりしているのだ。
 これの解消を試みる場合、前者のパターンならば何らかの方法で集団の中に放り込めばよい。個人的には何か物を作る教室にでも通わせればよいのではないかと思う。制作作業というものはけして思い通りにはならないものだ。学ぶものはあるだろう。
 後者の場合はやや複雑だ。極論、教師が格下に見られなければよいわけで、それにはやはり何らかの分野における優秀さを周知させるのが一番手っ取り早いだろう。そのためには他の保護者も巻き込んで、全体としてそういう認識を持たせるのがベストなのだが、しかしなかなかそれも難しい。最近の傾向として、保護者はあまり学校に関わろうとしないからだ。
 そもそも現状における学校(教師)側と保護者側の確執はコミュニケーション不足にある。原因は教師には仕事が多過ぎて(特に必要のない、形式だけの書類作製や勉強会が多過ぎだと観察される)時間が取れないことや、保護者には学校側への依存心が大き過ぎて深い関わりを持とうとしていないことが挙げられる。教師も保護者も人間なのであって、役割を果たすだけの機械ではない。実際に“一個人として”対話すれば、少しは感情移入も生まれるであろうから、互いに対して忌避感を抱くこともなくなるだろう。もっと家庭訪問をしろ、ということではないし、保護者会をしろ、ということでもない。立場を度外視して、相手を認識すべきだということだ。そうして初めてまともな観察眼を持てるのではあるまいか。学校や教師の能力に関して賛否を定めるのはそれからだ。


 もちろんこの話は教師がどこか優秀な人間(取り柄があるという意味)であるということが前提だ。しかし個人的には、モノを教える人間が取り柄もなくてどうするの?、と思っているので知ったことではない。そもそも様々な審査を乗り越えて教師という職に就いているはずだ。何の取り柄もバイタリティも無い、ただ真面目なだけのお人よしが選ばれているとは思いたくないし、そんな人間に教わるのは誰だってゴメンである。