風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その190+365+347)

『あらん限りの能力を行使せよ。そうして初めて人は次のステージへと進む』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 おはようからおやすみまで。でも寝ているときはサポート外。(挨拶)


 比較的よく晴れて、空気も乾いて涼やかだった。
 快楽というものは、基本的に行動の結果に付随するものだ。実際に体を動かすにしろ、思考活動にしろ、結果として得られたモノの価値に応じて、如何様にも増大する。快楽とは有限のようでいて、そうではない。限界があるとすれば、それは快楽の限界というよりは、価値の限界と言うべきだろう。
 しかし一般に、価値が高まれば高まるほどそれを手に入れるのは困難となり、伴う労力も大きくなってゆく。ある意味で代価として払える限界こそが、個人としての快楽の限界とは言えるかもしれない。だが、何かを犠牲にして、それを越えようとすることが人間の生の醍醐味のひとつではないかと、個人的には考える。そのくらいには快楽とは追求すべきものであろう。


 風鈴製作者はどうでもいいような遊びにも全力を尽くす。学生時代に合宿でドロケイ(地域によってはケイドロというらしいが)をしたときなど、木に登る、草むらや側溝に這って身を隠す、近くの山に入り込んで背後を突く、逃げる際に抜け殻のように上着を脱ぎ捨てる、など当たり前の感覚でやっていた。実に楽しい思い出である。(まあ、あの種の快楽は錯覚なのだが)