風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その181+365+347)

『形式を重んじるか、自由を選ぶのか。どちらにしてもとても人間らしい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 nice boat! (挨拶@ホントに“boat”なんだ、コレ…)


 しばらくぶりに暑い。それほど陽が射したわけではないが、空気が湿っぽく、汗ばむ感じ。日没後もしばらくは暑いままだったが、程なくして風が吹き始め、急速に気温は低下。夜半過ぎには雨が降り出した。
 日本ひきこもり協会じゃない方のNHKで、お墓に関する番組をやっていたようなのだが、何となく流し見ていた中で、情緒的、という単語が耳についた。
 番組ではどちらかというとお墓に入る側の人が、どのような墓や埋葬法を選択しているのかということを紹介していたのだが、その中で、旧来の形式的な埋葬法(家族単位で購入した墓石の下に納骨するなど)を選ぶのか、それとももっと自由度の高い個人的嗜好を重視したものにするのか、という場面で、年配の出演者が前者を指して“情緒的”と表現していた。
 おそらくその出演者は形式美という意味での情緒感を言いたかったのだと思うが、しかし後者のほとんど場合においても、なんとなく雰囲気がいいから、とかそういう印象的な理由で選んでいるのではなかろうか。結局どちらも感情的で、とても人間らしい、人間にしか持ち得ない感性における選択であることには変わらないだろう。


 仮にまったく情緒的ではないものがあるとすれば、それは人間の意思が介在しないものでしかありえない。無縁墓地とて、結局、何らかの宗教の形式には則っている。もっともこの場合、情緒感を抱くのはお墓を参る側の方だが。