風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その179+365+347)

『誰が一番であるかを決めることは、そう悪いことではない。しかし一番であることが素晴らしいかといえば、必ずしもそうではない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 …2才4ヶ月のときのこと、ってコレ?(挨拶@ウマゴン)


 引き続き、曇り。ここのところ朝が快適すぎて、つい二度寝しそうになる。寒い冬場に布団に潜り込んで二度寝する、という話をよく耳にするのだが、風鈴製作者はあまりそういう感じではない。逆に大気が冷えている方が体温がすぐに上がり目が覚める。寒さに体が抵抗しようとするのは生理現象なので、別におかしくはないだろう。
 いつの時代においても競争というものは人が発展していく上で大きな要素であったろうし、今後においてもそれが根本から否定されることはないと思われる。ただ間違うべきでないのは、あくまで競争することが重要なのであって、本来は一番になることが至上目的にすべきではない、ということだ。
 ほとんどのレースにおいて一番になることは、つまり何らかの大きな利益を得ることと同義だ。それは肉体的な競争においても、数量的な競争においても同じことだ。確かに競争を促す上で、そういった賞品を用意することは有効であろうし、何よりも優れた人間が優遇されるの当然のことだ。しかしその賞品を獲得することを唯一の目的とすることはあまり健全とは言えないし、何よりも後の堕落を生む可能性が高い。ひとつ例を挙げると、この国の高校・大学受験とはそういう類のものだ。受かるまでに異常な情熱を燃やす人間は多いが、入学してから堕落堕落(ダラダラ)する人間もまた多い。受かることが至上目的となってしまっているからだ。


 また、最も優秀であることを示したとしても、その一時の事実がいつまでも最優であることを保証する訳でもない。単純に下位の者に抜かれるかもしれないし、あるいは次席や三席の者に手を組まれ、瞬時に立場を覆されるかもしれない。一番であるということはその程度のことだ。