風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その178+365+347)

『流れに合わせて治水を行うか、流れを無視してでも思い通りのラインを築くか。どちらに無理があるかは自明のことだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 もっと熾烈なアクションが欲しいよね。(挨拶@七万止め)


 昨夜遅くから降り始めた雨が朝方まで降り続いたが、6時前後には止んだ。以後は曇って涼しく快適。月見は絶望的かと思ったが、夜には一時的に晴れ間も覗き、雲間に白い月が輝いた。“白い月”とはいってもアダムが中に居たりはしない、…と思う(何のことだか分からない率、推定90%超)。
 物事には容易に覆せる事象とそうではないものがある。たとえば山は容易には崩せないものだ。だから山の向こう側まで道を作る場合、山を峠沿いに迂回させたり、あるいはトンネルを掘って貫通させる。邪魔だからといって山そのものを切り崩して平地にしてから道を作ったりはしない。
 ありとあらゆる事業というものはそういうもので、基本的に最も効率が良く、合理的な方法を選択するのが一般的だ。こういった傾向は観測技術の向上に伴い、現代に近いほど強い。この話は何も土木分野における測量に限ったことではなく、統計から導き出される各分野の今後の推移にも見られ、そういうデータを元に未来を予測することはすでに当たり前のこととなっている。
 ただしこれはあくまでも将来的な利益追求をすることが前提のことであり、(悪気のあるなしに関わらず)現実にはそういった観念をまったく持たず、目先のことだけに捉われている人間が圧倒的に多いし、そもそもデータ分析による未来戦略というものを拒絶する(過去の事象・経験がいつまでも適用できると信じている)人もいまだに存在する。


 こういった人間が財や権力を掌握している場合、世相の捻じ曲げを画策してまでも自分のやり方を正当化しようとするのだが、それも所詮は一時の無駄な足掻きであり、時代が過ぎれば過ぎるほどに現実から乖離し、最期には否定されるだけの惨めな評価を受けることになる。表層上の悪気はない場合、とてもみじめな思いをすることだろう。