風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その177+365+347)

『人殺しという行為自体、特に不思議なことではない。おかしなことがあるとすればその手法だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 寝込みを斧で襲うというのはとても合理的。(挨拶@でも殺人自体が非合理。以前にも書いたけど、そこんとこヨロシク)


 今日も雲って涼しかった。雨は15時前後にパラパラとわずかに降った程度。前線の南下に伴い、関東(特に南関東)は明日も雲に覆われそう。中秋の名月はおあずけの公算が高い。
 なにやら9/20の冒頭に書いたこと(一連の流れ云々)の事件を模倣したかのような事件が起こったらしいが、それ自体に興味はない。まったくない。欠片もない。どこでどんな境遇の人間が、どのような理由で誰に何をしたのかなど、関係のない話だ。そんなことは警察が調べて、当事者の身内と裁判関係者だけが知っていればいいことだ。
 模倣犯、という表現があるが、この場合、主に模倣しているのはその手法である。他人に状況や境遇を真似ることは難しいし、ほとんどの場合、それは意味を持たないので、自然とそういうことになるはずだ。
 ならば実際に行われたその手法を世間一般に広めているのはどこの誰なのか、という疑問がある。模倣犯を生んでいるのは彼らの罪ではないのだろうか?


 知る権利に基づいて報道していると言えば聞こえはいい(らしい)が、世間に注意喚起するならば状況を伝えるだけで充分だ。細部まで演出する必要はまったくない。手法について微に入り細に穿って紹介するのは、いったい何を狙ってのことなのだろうか。下品な悪意を感じる。