風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その175+365+347)

『暗部に気付くのは、暗部を自覚するものだけだ。しかし無自覚なままよりは救いがある』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 そういえば昔、愛の勇者という方がいましてね。そりゃあ、いつも鼻血をドクドクと…。(挨拶)


 昨日までと比較し、やや曇り気味だったが、気温・湿度ともに高い印象。それほど汗をかかないうちから、服がまとわりついて暑苦しい。日没後も曇りがちで、熱放射が起きにくいのか、深夜まで暑いままだった。
 蛇の道は蛇、とかそういう言葉もあるように、人の悪い部分に真っ先に気付くのは、そういった悪性に自覚的な人間だ。自身の中にある悪性を知っている人間は、それに類するものに接したとき、すぐに反応するものである。
 こういう書き方をすると、まるでその人自身が悪人のように感じられるかもしれないが、そういうことではない。要するに自分を見つめることができる人間だということだ。
 通常、青少年期に一度くらいは、自分は悪なのではないか、といった考えに囚われ、いつの間にやら自然消滅しているものだが、内面的な問題の程度によってはそれがいつまでも残留することがある。それを放棄し、無自覚なままに沈殿させると、その種の悪性に対して鈍感になると思われる。各種の犯罪行為に対し、抵抗を持たない人間の一部はこういった人間ではないか。逆に問題を放棄せず自覚的であり続ける人間は、周囲との比較を怠らないであろうから、むしろ犯罪などには走りづらいだろう。世間の風潮の一流として、予め悪いモノは隠してしまえば同様の悪いことは起きない、という考えがあるが、それは人間の想像力を甘く見すぎである。人間は悪に対して自覚的で敏感であり続ける方が反社会的行為には走らない。思考を続けることにより、周囲との確執から生存が困難になることに気付き、恐れるからである。


 同様に悪を知る者は、同様の悪性を内包する人間に気付き、それを正すことができる。しかし、仮に人間全てが悪を知らない世界になったらならば、たったひとつの悪が生まれた瞬間に、周囲はすぐにそれに染まることだろう。それは某大宗教の聖典にも書かれていることだ。