風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その174+365+347)

『愛することで救われるというのなら、その愛はすでに壊れている』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 このロリコンどもめっ!(挨拶)


 朝からよく晴れて、夜には月が出た。当たり前のことだが、そのことにすら気付かない生活をしているしている人もいる。まだまだ風鈴製作者にはそれに気付く余裕がある。幸せなことだ。日中はやはりそこそこ暑くなるのだが、しかしすぐに涼しくなったので、そう不快でもなかった。
 当たり前だが、愛とは無償ではない。あくまで風鈴製作者個人が思っていることだが、愛とは自分に利益があるかないかに関わらず、対象物を維持しておきたいと思う心だと思う。ひとつ例を挙げると、とても才能のある人を支援しその能力を引き出して維持する、あるいは、実質的な支援できずともそれを願う、といった行為は愛の一種であると考える。
 一見、これは無償に思えるかもしれないが、対象物が一定の範囲内に納まっていなければならない以上、やはり無償とは言い切れない。これは人格など無形のものを愛する場合でも同様だ。
 しかし世の中には、愛するという行為自体が自分を救うことになる、という思想があるようだ。おそらく何かの贖罪行為なのだと思うが、この場合、愛する対象=償うべき相手でない限り、見当違いのすり替えに過ぎない。愛される側にしても戸惑うばかりだろう。非常に曖昧なまま愛され、いつの間にやら勝手に救われているのである。そんなものは不気味でしかない。


 強引に解釈するならば、それは自己愛なのだと思う。誰かを愛している(ように見える)自分を愛しているのだ。これほど一般的な愛の観念からかけ離れたものはない。壊れている、と表現されてしかるべしだろう。