風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その166+365+347)

『あらゆる情報にはふたつの役割がある。ひとつは情報を伝達するため。もうひとつは記憶を補助するためだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 いざさらばー、さーらーば先生ー。いざさらばー、さーらーば友よー♪(挨拶)


 風もなく雨もなく、日差しもない穏やかな一日。昨日と比べれば、日中、気温が上がったが、朝夕は涼しく快適。しかし予報では今後、太平洋高気圧の勢力が盛り返すらしい。
 職場で近日中に退職する方がいるのだが、その人が最近、同僚全員とツーショットで写真を撮っている。単に写真好きなのかと思い、聞いてみると、親に見せる、とのこと。自分がどんな職場で働いていたのか教えて安心させてあげる、という意味らしいが、なんとも不思議な発想だなと思う。
 確かに画像には文字や音声以上に情報を伝える能力がある。また短時間に取得できる情報量からしても有益であることは間違いないだろう。しかし人の内面や、過去のあらゆる出来事を記録したものではないので、その辺りはその写真が撮られた場所にいた人物の主観における説明を受けるしかない。しかし個人の主観とは、他人にとっても、自分にとっても不確かなものだ。けしてそれは真実ではない。


 個人的には人物写真というものが好きではない。そんなものに特に意味はないし、自分の周囲で起こったことは覚えていられるだけ覚えていればそれで充分だろう。重要なのは起こった出来事からどのように影響され、何を得て、何を為すかだ。ただ覚えておく、という行為に意味がないとは思わないが、建設的でないのは事実だろう。