風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その159+365+347)

『ある事実に対する認識には3種類ある。知りたいこと、知りたくないこと、知っても意味の無いことだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 風がジェットコースター。乗客は雨粒。(挨拶)


 台風進行中。午前中は降ったり降らなかったりだったが、昼過ぎからは常時、降り続け風も強くなった。予報では台風の本州上陸は明日未明の模様。
 人間社会で生きていると、様々な人間や出来事に出会う。その過程で多くのことを知るわけだが、その中でも圧倒的多数を占めるのが知っても意味の無いことだ。すでに過ぎ去って完結したことや、遠く離れ関わることのない話だ。
 しかし本当に無関係なことならまったくの無害なのだが、たまに無関係にも関わらず、さも関係のあることのように押し付けられる場合がある。主に“話のタネ”と称されるものがそれである。
 昨日○○に行ったんだけど〜〜、や、××で△△に会った、などの当人の主観における事実を羅列しただけの内容で、他の誰にとってもなんら価値を持たない話なのだが、話している本人は一種の悦に入っているという状況は非常に煩わしい。たまに、そういう話を聞いてあげることが優しさだ、と言う人もいるが、しかし他者を不快にする行為を容認することは、本人のためにも良くない。むしろそういった優しさを示すなら、その話に対する無関心さを示してあげることこそが優しさだろう。


 欠片も意味の無い会話を無理にすることは、むしろ人間関係を悪化させる場合がある。その理由は、やはり時間を無駄に浪費している(させられている)という判断からだろう。