風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その150+365+347)

『常識に囚われるから柔軟な発想ができない場合よりも、分からない、と放棄することことの方が能力を狭めている』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ああ、今日はこんなに――――(挨拶)


 日中は晴れていたが、徐々に雲が広がり、19時辺りから雷雨となった。気温は30℃は越えたが、夕方以降はまるで暑くない。むしろ涼しい風が吹き始め快適だった。雲の上では皆既月食が起こっていたはずだが、影も形も見えず。残念。
 TVで札幌からの映像で月蝕中の月が薄っすらと赤っぽい色で夜空に浮かんでいたが、本当ならば月蝕中の月は視認できないはず。ならば、何故カメラに映っているのかといえば、おそらく太陽光が地球の縁の大気中を屈折し、月を照らしているからだと思われる。確かに光は直進しかしないものだが、それはあくまで真空である宇宙空間での話。大気中は光を反射するものがいくらでも浮いているので、月蝕中であろうと太陽光は月に当たるはずだ。なにより、映像中の月が赤いのがその証拠ではなかろうか(陽光は大気中を長く通過すると赤色が強く残る。朝焼け・夕焼けが赤いのはそういう理由である)。


 これは中学の理科レベルの話である。というか、多分、中学入試でもこの程度の問題は出題されていると想像するが、多くの大人はこういった論理的回答には至らない。大人になるほどに馬鹿になる、ということの代表例だろう。