風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その133+365+347)

『無条件に、危うきに近づかないのはただの臆病』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。(挨拶)


 昨日同様、暑い。暑苦しさではこの夏一番(あくまで主観)。久々に髪まで湿るほど汗をかいた。
 いろいろとひと段落したのでサークルチェック開始。
 毎回、各サークルの出し物に関して思うことは多いのだが、ここ数年の傾向として総集編を出すサークルが非常に多い。特に増えたのが、今まで発行した同人誌の総集編ではなく、各出版社から出されているアンソロジー本の掲載作を含めたものだ。
 商業誌の掲載作を、同人誌として発行したり、あるいは打ち切り作品の完結編(あるいは書ききれなかった部分)を新たに書き下ろして発行するのは、これまでもまま見られたのだが、露骨に、○○に掲載されていた××、というように各作品を紹介した上で、まとめて本にするのはあまり無かったように思う。
 アンソロジーというのは元々、同人誌的なので、そういうことに敷居が低いのかもしれないが、それでも商業誌である。しかし未だ店頭に並んでいる本の掲載作ですらも同人誌に転載されていたりする辺り、(失礼な言い方かもしれないが)出版社的には、一定の期間が過ぎたら商業的価値を見切る、という傾向が強いのかもしれない。ハッキリ言ってしまうと、“作品”というよりは“消耗品”として扱われているのだと思う。


 それが悪いといっているのではない。ただ、メッセージ性の強い漫画が(一部で)持て囃される反面、やはり漫画は娯楽色の強い、いまだ芸術性の認められていないジャンルとして扱われているのだな、と思うだけだ。