風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その90+365+347)

『争いを収めるのに相互理解はいらない。互いを許容すれば充分だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 パチンコもほとんどやらない。(挨拶@ビギナーズラックで初めに大勝ちしているので総合戦績は+)


 あっつーーーーーーーーーーーーーいっっっっ!!!!!!!!(取りあえず叫んでみる)斯くして今年初のエアコン使用。除湿で運転させていたが、22時過ぎにストップ。少しばかり寝苦しかったが、それでもまだ我慢することにした。
 昨日の続き。
 相手との関係上、一部に利害関係の綻びが見られ、それが争いにまで発展すると、その人物そのものを嫌うようになる場合が結構な割合である。その争いが終結を見ても、元の関係には戻らないわけである。
 どうも世間的にはこれが当たり前のように言われることがあるようだが、イマイチ理解に苦しむ。バツが悪いとか、意固地になっているとか、そういった理由はいくつか想像できるのだが、どれも決定的な確執に至るものとは思えない。
 思うに、争っているうちにそれまで理想化されていた相手の人格が、まるで違うものであるかのように錯覚してしまうのではなかろうか。そしてその錯覚した新たな人格が、その人物の大部分を占めているかのように思い込むのだ。言わば、争いを経て、まったく人物になってしまうわけである。
 もちろんそんなわけはなく、争っている最中の人格は、普段出していないだけの、その人物が元々持っていた人格に他ならない。いくら普段見知ったものと違うからといって、それはけして他の誰かではないし、突如としてそういうものが生まれ出でたわけでもないのだ。そういった多面性を許容して、また元の普段通りの関係に戻れば、見知った人格が対応してくるはずだ。それで解決ではないか、と思うが、――――やはり大多数の人々は納得できないのだろう…。


 これは集団同士の争いにも同様のことが言える。友好的な一面もあれば、状況によっては凶暴な一面を現すこともある。そして他にも多くの面を持つだろう。それらを理解する必要はないし、そんなことはできないだろう。それほど人間は単純ではない。ただそれを許容すればいいだけだ。きっとそれで真の友好関係が築かれるだろう。