風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その82+365+347)

『人生とは解らなくて、判らない。何故なら解らなくて、判らないことの積み重ねだからだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 この犬がっ!(挨拶)


 ちょっと曇っていて、晴れ間は少ない。だが無茶苦茶蒸しあっつい!間違いなく、今年で一番不快な気候(すぐに更新されるだろうけど)。幸いなことに、夜になってからは涼しくなった。まだ冷房はいらない。
 お葬式などに出席すると、必ず目にすることになるのが個人の人物批評をしている人々だ。あの人は○○な人だった、とか、いい人生だった、などと勝手に人生の評価までしていることすらある。
 もちろん他人にそんなことは判定できるはずは無い。それはどんなに親しくしている人でも同じことだ。あくまで彼らは勝手に想像し、あるいは勝手に捏造し、偽造された思い出に浸って酔っているに過ぎない。人間に、先入観と記憶の劣化・美化という習性がある限り、それは否定できない。
 では亡くなった本人にならできるかといえば、そうではないだろう。良いこともあれば悪いこともあった。良いことをしたし、悪いこともした。それらがフィフティフィフティであったかといえば、正確な判定ができるはずもない。これは、ある特定の出来事に対して全力を尽くせたかどうか、という後の判定にも似る。判らないのだ。その瞬間、自分は全力であったかなど、確証はどこにもない。もっと有効な手段を採り、より有益な結果を残せた可能性もある。人生の最終的な評価とはそれの積み重ねだ。判らないことの積み重ねなのだ。


 それでもきっと何か残るものがある。それは何か物質的なものかもしれないし、信念や理念といった想念的なものかもしれない。そう信じながら、誰しも生きているのかもしれない。――――その想いすらも、幻想であり、確固たるものではありえない。