風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その58+365+347)

『悪性の存在そのものから目を逸らしても、それは内側から湧きいずるものである以上、逃避に過ぎない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 愛は勇気を信じる力なんだ。(挨拶)


 晴れ時々曇り。気温はあまり上がらず、乾いた空気で涼しかった。このくらい乾いていれば夏になるのも、そう文句はないのに(北海道に住め、とか言うの却下)。
 なにやら中国では今日から『DEATH NOTE』の集中取締りを全国で行うらしい。記事はコチラ
 なんというか、あの作品は人間の悪性と独善性を描いているだけだと風鈴製作者は認識しているのだが、海の向こうのお国はそうは思わないらしい。デスノートには神秘主義、死亡、報復などの感情要素が含まれ、子どもの人格形成に重大な影響を与える」とは当局の見解だが、神秘主義がわずかでも含まれたらダメならば、魔法や魔術、空想動物などの登場する作品は全てアウトなのでは?そして死亡・報復といった要素がまったくない作品なんてあるのだろうか? …なんというか、やはり共産国家なのだな、と思わされる一幕だ。


 人間の悪性は外側から植えつけられるものではなく、内側に始めから存在するものだ。しかしそれは性悪説とか性善説論議以前の問題で、場面場面における、より多くの利益を得るための合理的判断の結果が顕現したものである。そしてどのような判断を下し、どういったものを有意なものとするかは当人の価値観に左右される。しかし人間という生物にとって、何にも優先する価値観とは生存し向上することに他ならない。“死”も“報復”もそこに根ざしたものだろう。