風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その56+365+347)

『長寿を望むことと、健康を保とうとすることで、どちらが健全か?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 格差って何さ?多分、思い込みさ。(挨拶)


 晴れ。よく晴れて暑くなったが、しかしまだ春の領域。耐えられないこともない。耐えられるだけで、嫌なことにも変わりはない。
 メタボリック〜、という言葉が発せられてからしばらく経つ。大分、周知のものとなったようで、10年位前と比べると、かなり健康に気を使う風潮が強くなったようだ。最近だと“水”を摂取することが体に良い、ということで、以前より意識して多く水を飲む人が増えたようだ。ミネラルウォーターは随分以前からあるが、販売当初は水道水の不味さゆえに売れていたと思う。その点で、少し購買意義が変化している。
 ただ風鈴製作者の観察する限り、一般人の感覚では、あくまで長生きすることに主眼が置かれているように思う。また、国としては健康であることを維持して欲しいのだと思われる。やはり国家としては労働力を生み出せない人間に増えてもらっては困る、というのが本音に違いない。老いても健康のまま働き続け、余生など持たず速やかに退場して欲しい、というのが国家的理想だろう。


 風鈴製作者的にはどっちでもいいが、ただ何もしていない(できない、ではない)人間が多くのさばっているのは、やはり一所懸命に成果を上げている人間に不快感を与えるだろうとは思う。まあ、そういう人にはより多くの充分な優遇措置を与えればいいことなのだが、平等の名の元に、差をつけることが倦厭される場合が相変わらず多い。頑張っている人は裕福になることになんの問題があるのか。それすら、差別だ、と言うのはもはやそれ自体が差別である。