風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その39+365+347)

『美しいから誇りが持てる?いや、逆じゃない?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 扇風機、始動!(挨拶)


 快晴、時々ではなく、常時蒸し暑い。夕方以降もあまり涼しくならず、ジメっぽい夜だった。
 美しい国”って何ですか?見つけにくいものですか?官の中も、民の中も、探したけれど見つからないのに♪――――これ、このまま替え歌作れそうだな…。いや、現首相の掲げてるスローガンらしきものの話だけど。
 何やら愛国心を育てるための方策らしいのだが、そもそも何をもって美しいとするのかが、風鈴製作者にはよく分からない。そして誰にとっての美しさなのかも不明だ。おそらく、国民一人一人になにかしらこの国のモノ(文化・自然など)で、誇りに思えるようなものを見つけてもらおうとしているのだと思うが、今の日本人にそれを期待するのは難しいだろう。
 何故なら、ほとんどの日本人は他人を無視できない。隣の人が何をしているのかを頻繁に気にするし、あるいは逆に自分が他の人と同じことをしているか(はみ出ていないか)どうかをしきりに気にする。つまり一人で好きなことをやることに慣れていないのだ。これは、やはりと言うべきか、年齢の高い人ほどこの傾向が強い。だから、仮に何かこの国で好きになれるモノが見つかっても、周囲に排斥された途端に、そのモノに対する自信が揺らいでしまう。それでは到底、誇りにまではならないだろう。


 そもそも誇りとは他人に影響されて揺らぐようなものではない。始めから自分の中だけに存在するものであり、とても孤独な存在だ。しかしだからこそそれは“美しい”とされるのではないか。自己の中だけに存在し、生の中で磨き上げられた唯一無二の美。これこそ万人の認める美しさでは?