風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その38+365+347)

『専門分野を持たない一般人の知識など、100年前の人間とさして変わらない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 中国地方で軒並み、真夏日だってさ。(挨拶)


 薄っすらと灰をまぶしたような天気。つまり薄曇りながらも晴れ。東京はまたも夏日になった模様。しかし常時、適度な風が吹いていたため、それほど暑くは感じなかった。
 本来、義務教育とは社会活動を行う上で必要な知識を学習させるためのものである。だから高校や大学とは、特に生きる上では必要のない、より高等で専門的な学問(あるいはその準備段階)を行う場所だ。それが資本主義経済を採用した結果、学校運営も営利第一となった結果、現在のような全入状態になっている。そのことは別にどうでもいい。
 問題なのは、専門分野を修めに行っているはずが、一旦修めたはずのそれを、早々に忘れ去ってしまっているという点だ。そういった現象は高校・大学で学んだことだけではなく、義務教育の分野にも及ぶ。
 多くの人はその原因を、社会人になってからは使わない知識だから、と言うが本当にそうだろうか?どうも世の中で起こっている事件・事故の内容をしっかり理解する知識すら忘れ去っているように見えるのだが…。それでも“使わない知識”なのだろうか?


 別にどんなに忘却を重ねようとも一向に構わないが、しかしそれならそれで、自身が何も知らない無知な生き物であることを自覚して、身の程をわきまえて欲しい……と思うのだが、しかしそんなことを自覚している人間は無知にはならない。以前に同じことを書いたが、気付く人間は早々に気付き、気付かない人間はいつまでも気付かず、そうして知識量の二極化が進んでいくのだ。