風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その28+365+347)

『称号など所詮何の証明にもならない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 1Fと21と27。(挨拶@素数素数を数えるんだ…っ)


 朝から軽やかに(何が?)晴れていたのだが、17時頃から突如として雨。一昨日と同じく、一時豪雨となる。しかし、すぐにカラリと上がった一昨日とは違い、今日は豪雨が過ぎ去ってからも小一時間ほどパラパラと降り続けていた。
 よく物語などで、武道に長けているキャラクターを表現するのに、××○段、というのがある。要するに柔剣道、空手道、合気道などにおける段位のことだが、実のところ、これはあまり意味を為さない表現だ。
 何らかの武道をやったことのある人間ならば分かるはずだが、段位はその個人の強さを表すにはあまりに不確定な称号だ。試合、あるいは実戦において強い人間が、高段位を持っているわけではけしてない。(※個人的にはむしろ逆であると判断している。詳しく書くと長くなるので割愛するが、勝負に勝つ手法というのは、段位修得のために必要な型の清廉さとは真逆だからである)。
 もちろん、段位を取るまでにそれなりの練習はしているはずなので、一定以上の体力はあるだろうが、それとこれとは話が別だ。しかし武道に触れたことのない人間の目には、そうは映らないらしい。どうにも××○段と聞くと、無条件に“強い人”という判断を下す傾向にある。
 武道とは“一応”その本質において強さを追い求めるものではないことになっている。しかし、武道を嗜んでいる人=強い、という印象を持たれているということは、やはり一般的には武道は他者を傷つける技術だと思われている証拠だろう。


 別にそのことを否定はしない。風鈴製作者の経験上、武“道”をひたすらに求めている人など見たことがないし、実際、人を傷つける行為であることには違いない。しかし段位とは型などの完成度から、“人”を見た上で与えられるものなので、純粋な強さとはまた別物なのである。(※もちろん武道における理想論である)