風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その12+365+347)

『時間と労力を割けば割くほどよい仕事ができる?いや、それは無能の論理だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 雨は夜明け前に上がったらしく、朝から晴れ。とても暖かい一日だったが、やや風が強く吹いていた。黄砂がたくさん飛来したことだろう。
 漫画でも小説でも、取材というものをする。どんな作品を書く上でも、まったく下調べしない人は(多分)いないだろう。ただ、その必要量はやはり読者次第だ。そもそも取材の価値を認めるのは読者であると言ってもよい。
 例えば主人公たちが日本刀を振り回して戦うバトル漫画であれば、日本刀の造形や持ち方、帯び方(佩き方)くらいは正しく表現しなければならない。別にそうと決まっているわけではないが、そのくらいはしておかないと多くの読者に支持されない、という意味だ。
 逆にさほど拘らなくてもいいのが、状況や運次第で大きく左右される出来事だ。例えば、登場人物が海辺の崖から落ちたシーンがあったとしよう。これは死亡してしまったかどうかはかなり微妙だ。銃で頭を撃たれて落ちた、というシチュエーションならともかく(そういうのでも生きてたりするけど)、多少、怪我をした状態で、下が確認できる崖から落ちた程度では分からない。また小説ならば映像がないので、書き様によってはどんな絶望的状況においても言い訳ができる。文字だけという縛りがあるようで、実は一番自由なのは小説かもしれない。


 世間では小説とは充分な取材と綿密な思考によって組み立てられているように思われている節がある。構想○年、なんていう売り文句はその象徴だろう。しかし本当に○年も、それだけに取り掛かっているわけはないし、実際、本当にそれだけの年月を費やさなければならなかったのだとしたら、それはある意味で才能の枯渇を触れ回っているのと同じではないか…?(※もちろん、思いついてから○年、という意味だろう)