風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その355+347)

『自らが関わりのあることに善悪を求めることは、自らの悪性を無視することである』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 にゃるらっ!(挨拶)


 冬の悪あがきは過ぎ去り、徐々に暖かくなっている。そういえば東京は昨日、ソメイヨシノが開花した模様。
 世の中に起こることや存在するものには、本来、善悪は存在しない。いたずらに命を奪うことであろうとも、その本質は無属性なのである。
 善か悪かを求める行為には、立場や意思、思想、利益の有無などが根底にある。そういった極めて人間的な精神性が存在するからこそ、自らの意図に反するものを悪とし、都合の良いものを善とする。それだけのことだ。それは、環境問題を例に挙げても変わらない。多くの人間は、自分たちが住みづらくなるから環境を適正状態に維持しようとし、それだけではないと主張する人々も、各々の守りたいものを保持しようとしているからこそ、極度の環境変化に警鐘を鳴らすのである。
 本来ならば、そういった自分本位の考え方は、どちらかと言えば“悪”とされる行為だ。しかしほとんどの人間はそれを無視している。実に便利で巧妙なシステムを持った生き物だ。


 しかし、人はたまに自らになんの利益にもならない、むしろ損にしかならないこともする。うん、よく分からない。