風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その342+347)

『好奇心は猫だけじゃなく人も殺すが、しかし人を飛躍させもする。要するに起爆剤のようなものだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 火薬の量が多すぎると暴発しますデス。(挨拶)


 穏やかに晴れ。初春に相応しい温度と湿度で特に言うことはない。そういえば自宅の近くにある公園ではすでに桜が満開だ。とは言ってもソメイヨシノではなく、もともと早咲きする種類なのだろうが、それにしてもずいぶん早いような気がする。
 取りあえずココで紹介されているムービーを見るべし。話はそれからだ。
 以前あったペットボトル爆弾もそうだが、こういうやや危険なことを見ると、自分も実際にやってみたくなるのは何故だろうか。単に真似がしてみたいだけなのか、それとも結果がそうなる理屈を検証してみたいのかは人によるだろうが、好奇心から危険に飛び込む人はそれなりに多いように思う(そんなことは思わない、という人は本日はご退場願います)。
 危険である、ということは、それは人体を殺傷するようなエネルギーがそこには存在するわけで、それが高くなればなるほどに危険度=リスクは増大する。しかし、人間は太古の時代から自ら危険に近づいて、そこから得られるエネルギーを制御し手に入れてきた。火や火薬、ニトログリセリン原子力をイメージすると分かりやすいかと思うが、こうして手に入れたエネルギーは、ことごとくが人間世界の大きな飛躍の原動力となっている。つまり、そういったリスクに伴うリターンがあることを知っているからこそ、人は危険に近づこうとするのではないかと思うのだが、どうか?


 もちろん、何のリターンもないリスクに近づく必要はない、というか極力避けるべきだ。しかしそうと決まったわけでもないことを無闇に避けようとすることは停滞を意味し、同時に愚かとも言えるだろう。