風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その323+347)

『年長者が年少者の文化を理解することはあっても、その逆はありえない。せいぜいが理解したつもりになるだけだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 腐れヤベー!!!(挨拶)


 午前中から徐々に曇り始め、昼過ぎからは完全に雲に覆われた。そして日没前後から雨。気温は平年並みといったところだが、湿度が高いのか、さほど寒くは感じられなかった。
 風鈴製作者は紛れもないファミコン世代である。だからこそビジュアルや音響といったデータ量に頼らない、ゲーム性や演出、様々な工夫を凝らす必要のあった昔のゲームをこよなく愛するし、また同時に、現代の高画質・高音質で体感的に訴えていくゲームも楽しむことができる。これはゲームソフトの変遷をそれなりに見てきているからである。
 しかしムービーや、美しい画面描画のゲームしかプレイしたことのない若い世代には、かつてのファミコンソフトを楽しむのは難しいと思われる。
 以前にも書いたが、現在のTVゲームとは、プレイする、ということと、“視聴する”ということが同義であると感じる。やらされている、とまでは言わないが、少なくともある特定のシーンや、様々な描写を見せるために、難易度を低く設定し、やれば誰でもクリアはできるものであることは間違いない(あくまで過去作との比較だが)。
 一方、ファミコンソフトなどの昔のゲームはクリアすることこそが目的だった。だからとても難しいゲームが多かったし、特にこれといったプレーヤーにとって受動的な見せ場はなく、ボス敵などとの戦闘という能動的な部分に魅力を感じていたのだ。この差は大きい。


 どちらが優れているか、という話ではない。そんなものはゲームというものをどう捉えているかによって変わるものだ。ただ片方しか知らない人間にとっては、もう片方はなかなか理解し得ないものだという一例を挙げたまでである(もちろんこの場合は理解不可能なわけではないだろうが)。