風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その322+347)

『結局のところ、物語とは現実と同じ一般性を有してはならない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 このおバカっ!(挨拶@さて、誰のセリフ?)


 少しだけ冬らしい気候。朝は冷たい空気が肌を刺し、日中は晴れるも温くはない日。だがそんな心地いい気候もそろそろ過ぎ去りつつある。やはり風鈴製作者は冬が好きだ。
 実写版『ちびまる子ちゃん』がこの春から連続ドラマとして制作・放映されるようだ。高視聴率に後押しされての連続ドラマ化らしいが、子供が主役のアットホーム系TVドラマは多くないだろうから(あくまで推察)、アニメ版との差別化がしっかり図れれば、そこそこ好評価を受けるのではなかろうか。
 ただ、それはあくまでそれが少数派だからだ。似たような番組が頻出するようになれば、やはりすぐに飽きられるだろうし、そもそもアットホームな物語がそれほど望まれているとは到底思えない。
 物語には、どんなに現実に即して描こうとも、必ず物語の“ご都合”というものがある。例えばアットホーム系ドラマでは、あくまでアットホームな中の多くの幸せと少しの困難をピックアップして構成している場合が多い。そしてあまり深い心理描写はしないし、あえて悪く言うならば登場人物たちの“都合のいい”表層上を撫でるように滑っていく物語なのだ。そういうものはいつまでも心に残るようなモノではない。少なくとも教育上、何者かに影響を与えるようなものにはならないことがほとんどだ(そんなことはない、と思う人は自分が過去に観たそういう物語の詳細を思い出し、それを観てどういう影響を受けたか考えて見るとよい)。
 別にアットホームな物語を否定しているのではない。たまに観て、少し笑ったりして楽しむには充分だろう。だが、それゆえに“それでなくてはならないわけではない”。ただ楽しむだけなら他のものでもよいはずだ。それが人間性に影響を与えるようなことはないし、現実に対処する上で、参考になったりはしない。そう思っているのは現実に“ご都合”という幻想を適用しようとする幼稚な人間だけである。


 青少年による奇妙な犯罪が起こるたびにゲームやアニメの影響がどうのこうのと言われるが、風鈴製作者に言わせれば、現実度外視のTVドラマで洗脳する方が、よほど社会に悪影響があると思うのだが…。