風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その309+347)

『怪異は理解しがたいからこそ存在できる。理解し、認識した時点で怪異ではない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 夜は墓場で運動会。棒倒しとかやると盛り上がりそう。(挨拶@墓石、倒しまくり)


 昨日の22時過ぎにバッタリと布団に倒れこんで、一瞬後には朝6時前。アレ、ここは誰、私はどこ、状態でふらふらとベランダに出てみると、西の空にはまだ満月が浮かんでいた。3文の得、とは言うが、3文は1円の3/4000なので、少なくともそれ以上は得した気分だ。朝は寒く、日中、やや北風が吹いたが、言うほど寒くはない。まあ平年並みではなかろうか。
 『ゲゲゲの鬼太郎』を再度、新作として製作決定したようなのだが(オフィシャル)、以前の趣旨(お化けの世界はナァ♪あるさ、お前の家のそば♪、みたいな)の通りに作っても、もう誰も怖がらないし、子供だましにすらならないのではなかろうか。


 現代ではいつどこにいても画像や映像記録ができ、それを瞬時に発信できる時代だ。ある意味で自然現象に沿った現象であり、その存在が不確かでありながら、多くの人間が信じていることこそが畏れの根源である“妖怪”はすでに棲む場所を失っている。そういう意味で、風鈴製作者が思うに、最後の妖怪とは“口裂け女”であったと思う。それ以降はどうにもコミカルに過ぎて、とても畏怖の対象とはならなかっただろう。