風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その282+347)

『個人特定をしないのは、セキュリティ意識の低さを示すことに他ならない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ……本気か?かわるか?人生。本当にかわりたいか?かわってみっか?(挨拶)


 雨は上がり、晴れ。昼頃から北寄りの風が強まり、日没後、かなりの強風に。だが、やや湿っぽい風だったため、さほど寒くは感じなかった。
 昨日に続き、時期ネタ。
 年末年始は方々から何かしらの贈り物が送られてくることが多くなる。それを受け取る際に、郵送業の人にハンコ、もしくはサインを求められるが、どちらかというと基本はハンコだと思う。
 だがよくよく考えてみれば、受領印として用いるには、ハンコよりもサインの方がその有効性が認められるだろう。受領印は受け取りの確認と誰が受け取ったかの確認のために存在する。それならば筆跡によって個人判別できるであろうサインの方が有効だ。


 こんなことは誰もが気付いていることだろうが、それでもハンコを用いるのは、おそらくこの国が家族社会であるからだろう。ハンコは苗字しか表示されないことが、その証左である(一個人の判を示す場合には“花押”というサインがあったが)。今後、受領印は徐々にサインへと移行していくだろうと思うが、まだしばらくはハンコ社会であり続けるだろう。