風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その278+347)

『利用価値を知っていてこその貨幣価値。知らない人間の評価など塵芥に等しい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 愛している、と口にする恐怖。(挨拶)


 薄曇り。太陽はちゃんと見えているし、日没後は満月(多分)も視認できる。しかし終日、雲が切れることはなかった。気温は少し高め。寒いとはまったく思わない。
 福袋というものがある。先に言っておくと、風鈴製作者は買ったことがない。得をするとは到底思えないからだ。まったくその可能性がないわけではないが、しかしあまりに分の悪いギャンブルだろう。
 どんなジャンルの福袋であろうと、自分が必要とするものは、中に入っている物の内、せいぜいひとつかふたつだろう。そして、それもまた充分な効果を有したものかどうかというと、その可能性はかなり低い。
 例えばだが、家電系の福袋でビデオカメラが入っていたとする。確かにそれは自分の欲しかったものかもしれない。しかしその録画媒体が何であるかによって、その満足度はかなり変動するだろう。デジタルテープ録画かSD録画かでは大違いだ(扱いを知っている人にとっては大した問題でもないけど)。


 個人的には、福袋とは物の価値が判らない人が買うものだと思う。価値、というのは、貨幣的な価値ではなく、利用価値のことだ。自分の欲しいものに対して理解の深い人は、福袋になど手を出さないだろう。(まあ、福袋ってそういう目的で買うものではないのかもしれないが)