風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その258+347)

『極めた、と思った地点が終末だ。たとえどちらにしても…』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 僕がキミを許すよ。(挨拶)


 また同じような天気で、さらに同様に雨の降った時間が後ろにスライド。今日は17時過ぎに降り始め、そして今も(現在23:11)まだ降っている。気温は昨日と同じくらい。どこかヌルイ気候。
 仕事であろうと、趣味であろうと、何かしらの技術ないしは手順の存在するものには、本来、完成形というものが存在しない。何故なら、人間はどこまでその能力を伸ばすことができるのかという、限界点の規定とその証明が、現状ほぼ不可能だからだ。
 もちろん人間は、手作業で集積回路を作ることなどできない。明らかに肉体の限界を超えているからだ。しかし手先の器用さという意味では、人間はどこまで精密なものを作れるのか、その結末は誰も証明できない。こういったものは徐々に徐々に記録が更新されるものである。もっと分かりやすい例で言うと、記録を競うスポーツが挙げられる。どんな競技であろうと、まだまだ記録は塗り替えられ続けるだろう。
 将来的には、その更新頻度は少なくなり、更新の幅も非常にミニマムなものになっていく。最終的には計測不能レベルになり、そこで記録の更新は止まり、つまりそこが人間の限界となる。だが、それはあくまで計測上の問題に過ぎない。実際には、まだ進歩が続いているかもしれないのだ(あくまで概念論として書いているので、あまり真に受けないように)。


 何が言いたいのかというと、限界点とはその分野に関わる人間自身が決めることだということだ。限界だ、と思えば、その人物の進歩・成長は止まる。それは一種の見切りや諦めであり、それは確かに場合によっては必要なものだ。しかし、世の中の“達人”と呼ばれる人はけして見切らないし、諦めない。彼らは死ぬまで進歩し続けるだろう。