風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その251+347)

『どんな物事にも合理的理由がある。しかしそうでないものもしかり。そこにあるのは合理性ではなく、何かに後押しされた衝動が存在する』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 勝てば天国!負ければ地獄!(挨拶)


 夕方までは晴れていたが、しかし日没あたりから雲が広がった。天気予報などではキャスターが、寒くなってきました、などと言っているが、なんだかんだで日中は12〜14℃くらいはある。そんなに寒いか?
 知力体力時の運、とはアメリカ横断ウルトラクイズの代名詞ともいえるワードだが、かの番組が終了して8年(レギュラー番組としての終了から数えると14年)が経つ。いまだその復活を望む声は多いと思うのだが、しかし正直その望みはいくつかの観点から、難しいと思われる。
 あまりにも巨額な制作費や、クイズ研究会の台頭による後半戦のバラエティ・人間ドラマ性の降下などもあるのだが、何よりも現在の放送メディアの倫理性の異常な潔癖さを見ていると、あまり露骨で過酷な罰ゲームは不可能であるからだ。
 罰ゲームは、かの番組における一種のカタルシスであると言える。勝者の喜びの反転描写としての敗者の落胆・悔しさが、罰ゲームを通してエンターテインメントとして成り立っているのが、横断クイズの、ただのクイズ番組でなかった点のひとつだった。それを排除し、ただ敗者に、残念だったね、などと慰めたりするのは言語道断である。むしろ罰ゲームを行い、盛大に感情を炸裂させる姿が面白かったのだ。それなしには横断クイズは横断クイズ足りえない。


 予算的には、もしかしたら何とかなるかもしれない。しかし今現在、かつての製作スタッフほどに発想力に富んでいる番組製作者がいるとは思えない。正直、劣化コピーになるのが関の山だろう。――――それでももう一度やって欲しい、というのも正直な想いだが。