風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その234+347)

『如何なるものも、生物か無生物かは判定が難しい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ペット扱い、マジヒデェ!(挨拶@チョッパー)


 昨日に引き続いて雨。予報では昼過ぎには止むと言っていた。実際、一旦は止んだものの、しかし夕方前にはまた降りだし、結局日没後もしばらく降っていた。気温は少し上がった感じ。
 今年、愛知県で行われた万博では、インフォメーションなどにロボットを採用し、それらが人間と会話するように案内する様は、各種メディアで、ついに来るべき未来が訪れた、みたいなイメージで報道されていた。
 もちろんあれはあれで素晴らしい技術だと思うし、すでに一般向けにも様々な用途のロボットが発売されている。だが、あれらはまだまだ、かつて手塚治氏が漫画に描いたようなロボットにはほど遠い。
 漫画内のロボットと、現在、存在するロボットの最大の相違点は、自ら思考し、それまでには組み込まれていなかった新しい発想をするかどうかだと思う。現在のロボットは、一定の融通と学習はするものの、それらは全て製作者の想定範囲内であり、あくまでプログラム通りに動いているだけである。漫画の登場キャラのようなロボットが生まれるには、どんなに頑張っても、まだ100年以上はかかるだろう。それらは単純な演算処理速度の問題ではなく、もっと根源的なアーキテクチャの問題であり、また同時に、ソフト的な問題であり、それを製作するのはあくまで人間だからだ。人間的なロボットを創造するには、やはり人間の研究が欠かせず、その内的(精神)世界は未解明な部分が多く、ロジックで語るにはまだまだ時間がかかるだろう。


 話が若干ズレるが、現在のロボットが生命といえるかどうかを論じるならば、風鈴製作者はそう思ってもよいのではないかと考える。彼らは特定の命令に従って動いているだけだが、しかし、程度の違いはあれ、それはどんな生物も同じことだ。どちらかというと、自由意志を持っている人間の方が、生物的には異端なので、こういったことを人間を基準に考えるのは間違っているだろう。