風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その224+347)

『人間の許容量は計り知れない。どんな矛盾も錯覚も飲み干してしまう』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 サヨナラするたびに強くなれる それなら迷うことはないでしょう。(挨拶)


 さらに磨きをかけて晴天。陽が落ちた後も、まだまだ暖かく、厚着をしていると汗ばむほど。本当に11月か?
 実は今日で、現在、風鈴製作者が勤めている勤務先がなくなるため、来週からそこの従業員は全員、他の場所へとバラバラに転属となる。そのせいか、何人か感極まっている人が見受けられた。
 学校の卒業式などでもこういった現象は観察されるが、これはきっと、これで頻繁には会えなくなる、あるいは、これでお別れだ、という感覚に囚われるからであろう。もちろんこれは錯覚であり、実際にはいつだって会おうと思えば会える。その人が生きている限り、全ては自分の意志次第だ。
 (真っ当な)大人に成長すれば、経験や理性からそのことが理解できるようになるので、卒業などの場面でも泣かなくなる。それが当然だ。しかし、それでも奇妙な錯覚に囚われ涙を流す人は、きっと別れや疎遠になることが悲しいのではなく、そうなったことにより関係が切れてしまうかもしれない、という漠然とした不安から、なんとか相手を繋ぎとめようとして、泣くのだろう。一種の助けてコールである。


 ただ、ちょっと疎遠になった程度で関係が切れてしまうような相手と、いつまでも繋がっていたいと思うのは、理解はできないが、想像はできる。とても不思議な感情だと思う。実際には、どんなに近くにいようと、個人同士が精神的に繋がることなどありえないので、これも錯覚だ。しかしそれを真実と捉える許容量が人間にはあるのである。