風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その223+347)

『装飾は文化ではあるが、しかし文化も行き過ぎれば下品だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 練精化気 練気化神 練神還虚(挨拶)


 今日も磨いたように晴れ渡る空。暖かい。
 休みだったので、遅くまで寝ていようかと思ったが、しかし諸事情によりいつも通り起床……、したものの、その事情に行き違いがありポシャったため、急遽、予定変更して映画を観に行く。
 そのついでに冬物のシャツなどを物色した。個人的には服飾品にはそれほど気を回していない(最低限は気にしている)のだが、身近に、割りと頻繁に、服装について注文をつけてくる人がいるため、一応、その人への配慮という意思を込めて、それなりに考えて、結局、タイプ違いのフリースジャケットを2枚と、長袖のシャツを2枚、購入した。しかし、どうせデザインやら、何やらで、最後にはまた何か言われるだろう。


 対人関係において、見た目が重要なのは理解できる。しかし、ほとんどの人間がまず注視するのは、服ではなく頭部(顔面及び髪型)ではなかろうか。髪はともかく、顔ばかりは、整形しないとどうにもならない。だが、そこまでしなければならないほど、容姿が重要視されるような立場に、風鈴製作者はいないので、今後も、さして服には気を使わないだろう。まず機能性が重要である。(というのが、世の中の大多数の男性の意見だと思うのですが、どうでしょう?)