風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その221+347)

『いじめを根絶しようとすることの滑稽さ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 トンペティ老師って煙草吸ってるけど、波紋に影響ないのかな?(挨拶)


 晴れ。最近、日の出が遅いため、朝、歩いていても、あまり眩しくないのが助かる。目に染みるのだ、あれは(サングラスとかした方がいいのかなぁ…)。
 社会というものは奇々怪々なもので、どうも本気でイジメを根絶しようとしている人がいるらしい。いや、別にそういう方向に向かって活動すること自体は結構なことだと思うのだが、しかしありとあらゆるイジメ行為をなくすことが正しいとは、風鈴製作者は思わない。
 以前に少しだけ書いたことだが、人間の性(サガ)として、他者を蹴落とし、より高みへ進もうとする、というものがある。これによって、人間は現在のように発展してきたのだが、風鈴製作者は、イジメというものはこの性が変形したものだと思っている。
 人間は、上位に立つことに、この上ない快感を感じるものである。イジメというのは、自らを擬似的にそのような状態にして、悦に入る、という行為だ。その根源的原因は、個人の望まない社会組織への編入に伴うストレスにあるのだろうが、現状、それを排除すること、つまり個人個人をバラバラに引き離しておくことは不可能である。
 しかし、それ以外の方法でイジメを根絶するとなると、あとはイジメをしている人間を全否定する以外にない。そうなるような仕組み(極端な話、イジメを密告すれば賞金をだす、とか)を作れば、確かに永続的なイジメは根絶できるだろう。これは明らかなる人格の否定であり、ある意味で、逆イジメだろうと思う。元の木阿弥である。


 イジメを行うことによって、その人物よりも上に立つ、という幻想を、錯覚であると認識できるだけの知能と合理的思考が、あらゆる人間にあれば、イジメは極小になるだろう。しかし今の人間にそんなことはとても望めない。まだまだ人間は幼く、未熟なのだ。驕ることなかれ。