風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その219+347)

『あらゆる個人が必要とされる時代は、とうに過ぎ去った。故に、人の価値は命そのものに求めることはできない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 なにをするだァーッ!(挨拶@not脱字)


 曇り。朝方は涼しかったが、しかし日中はやや湿度が高く、人の多い場所では暑ささえ感じた。
 この世界には、無意味なことや、見れば分かるようなことをいちいち確認するかのように、他人に話しかける人間がいる。――――はい、ここまで読んで、少しでもイラついた人は、以下を読まないことを勧める。
 人と人の会話とは、究極的には、ほとんどの場合において意味のないものだが、しかし、ここで言っているのは、相手にとって、何の益にもならず、時間を拘束するだけ、という類のものだ。
 ひとつ例を挙げると、よく親が子供に口にする「今日はどうだった?」とか「今日はどうするんだ?」というような発言から始める会話である。世間一般的には、このような場合、子供は学校などでの出来事を話したり、あるいは、誰々と遊ぶ予定だ、という風に答えるのが常識的なのだろうが、かといって、それが義務のように思われているのには納得ができない。憲法上、子供にも自由意志を持つ権利が与えられている。故に、別にどのように答えようとも自由だ。「学校に行ってきたことはご存知なのでは?」「あなたにそれを教えなければならない義務はありません」でも可なのである。


 しかし、実際にはそのように答えると、たいていの親は激怒する。言うまでもなく、理不尽な叱責だ。
 何が言いたいのかというと、無駄な会話は、時に相手を不快にし、更には自分自身をも不快にさせるということだ。そして、ほとんどの場合、その責を相手に押し付ける。最悪である。
 会話は相手を選び、よく吟味してから始めた方が良い。