風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その198+347)

『思考にはアトランダムなものと、シーケンシャルなものがある。前者はリスキーだが飛躍の可能性を秘め、後者は安定するが、新たな発想を生む可能性が低い』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 指人形、シュールだなぁ…。(挨拶@今頃、詳しく観察)


 曇り、一時晴れ。AM1:00に晴れた、という意味ではない。確認。朝は、重ね着しないと、少し肌寒かった。
 人間には、自分たちの内側にあるモノで、世界を埋め尽くしたいという願望がある、という考えがある。分かりやすいところで言うと、科学や数学がそれに当たる。あらゆる現象を、自分たちの生み出した概念(数字や記号)で説明・表現するという点で、そういった願望が垣間見られるのだ。
 歳を取ると、人間は若い世代の言うことを聞かなくなる、あるいは聞いても理解しようとしない傾向にあるのは、風鈴製作者の観測上、まず間違いない(あくまで“傾向”である)。そして、自分の考えを相手に押し付けるのであるが、しかし、見ていると、同じ年代の人間の言うことは、比較的、耳を傾けているように感じる。
 このように、同じような考えを持った、同年代の人間だけの思想で、周囲を染めようとするのも、上記した“埋め尽くしたい願望”の一種ではなかろうか。極めてミニマムなケースではあるが、人間の本質に通じる、見逃せない傾向だろう。


 結局のところ、それらは一種の支配欲、あるいは防衛本能だという見方もできる。しかし、どちらにしても世代間の溝は埋まりそうもなく、また埋める必要もない。人間はそういう生物なのだ。