風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その192+347)

『物事が終焉を迎えるのは、その意義が失われたときではなく、やる気のある人数が充分でなくなったときだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 震えるぞハート!燃え尽きるほどヒート!!(挨拶@JOJOのCM、面白い)


 晴天だったが、昨日や一昨日と比べると涼しい。気がつくと、帰宅する時間帯には陽が落ちて暗くなっている季節だ。――――さあくるぞ、冬がッ!
 石原都知事が定例記者会見で、もう国体は要らないと思う、と発言したらしい(詳細)。あくまでも個人的意見とはいえ、公の場で都知事として会見しているのに更には2013年には東京都で国体を開催するにも関わらず、こういう発言をしてしまう都知事は、日ハムの新庄氏よりも宇宙人だと思う(別にどこで何を言おうと自由だけど)。けれども、誰もそういうことは言わない。この差は何だろう?とても興味深い。
 国体のような長年続いている定例イベントは、特に行う必然性がなくとも、惰性でダラダラと続いてしまうものだ。こういった状態になる根源的原因は、やはり運営している側が、盲目的に開催することにばかり重い責任を感じ、そのイベントが何故行われ始めたのか、ということや、誰がそれが行われることを望んでいるのか、などに目がいかなくなってしまうことにあると思う。また同時に、長年続いていればいるほどに、はやし立てる個人や団体(マスコミ含む)が多く出現するため、がんじがらめになってしまうのだろう。


 あえて国体のことについて言うが、個人的にはやろうとやるまいと、どっちでもいい。しかしやる“必要”があるかといえば、“必要”はない、と思う。多分、半世紀後にあれが行われているかどうかは、2:8くらいではなかろうか。