風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その191+347)

『文化とは学校で教えるようなことではない。学校とは、本来、生きていく上での基本的技能を教えるところであったはずだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 駅でご老人が倒れてたよ…。(挨拶)


 快晴。気温もちょうどよく、過ごしやすい。世間的には行楽日和とでも言うのだろうが、こういう日はどこにも行きたくない、と思う。…老人的発想だろうか?
 今を儚む人はそれなりにいるようだが、風鈴製作者は、現代に生まれてよかったとかなり強く思っている。その要因はふたつあり、ひとつはネットワークが一般に普及していること。そして、もうひとつはワープロが存在することである。
 子供の頃、誰もが必ず学校で出された宿題で、読書感想文というものがある。その実体は感想文というよりも、どんな内容の本なのかというレポートに過ぎない、アレである。風鈴製作者はアレに四苦八苦した。もう悶絶級というか、七転八倒というか、とにかく面倒臭く、イヤでイヤで仕方なかった。原稿用紙3枚を埋めるのに、幾日もかかったし、いつだって、どうにかしてやらないで済ませられないか、と考えていた。字を書くのがあまり上手くなかったのも手伝い、(今にしてみれば)たった1,200文字がなかなか書けなかったのである。
 しかし大学に入り、全てのレポート類をワープロ打ちでするようになると、そういった性質はどこ吹く風、実に簡単に、しかもいくらでも書けるようになったのだ(現在の最高記録は20時間で約24,000文字)。


 そしてその瞬間、風鈴製作者は理解した。筆記具に問題があったのだと!(暴言)


 最近は、小学校でも作文をワープロ打ちで提出させる教師もいるらしい。PCの授業が必修だった世代が教職に就き始めているのだから、当然の流れだが、この傾向には大賛成である。そもそも今現在、社会に出て、手書きで書類を作成することなど、まずありえないし、なにより手書きは個人個人のクセがあるため、活字に比べ、読みづらい場合が圧倒的に多い。故に、子供のうちに、ワープロ打ちに慣れさせておくのは、学校教育上、当たり前だと思う。
 手書きの美しさを否定しているのではない。それらがこの国の文化として、定着しているのは事実だし、個人的にも日本語のような複雑な文字形態を有した文化は興味深いと思う。――しかしそれと、これとは話がまったく別である。文化は文化、教育は教育である。文化は、残したい、残してやろうと思う人が残していけばよい。それだけのことである。