風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その182+347)

『誰もが、正しく語ることのできない他人である』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 くそぉっ!なんでアンタなんかにぃっ!(挨拶)


 晴れ、夕方から曇り。気温はだいたい平年並み。夜になって、少しだけ雨が降ったが、すぐにやんだ。
 昨日の続きである。
 人間同士のコミュニケーションとは、結局のところ言語をもってするしかない。ジェスチャなど、他にもいろいろあるだろうが、その有用性と汎用性において論外だ。しかし、言語にもまた欠陥がある。
 人間とは実に多彩かつ複雑な感情や思考を持っている。ほとんどの人間は、言葉は万能であるかのように思っているようだが、そういった人間の内面を完璧にトレースすることは、現在、この地球上にあるどんな言語でも不可能だ。あまりに貧弱なのである。
 また、同一の単語ひとつ採ってみても、その認識は人によって大きく異なる。これは昨日書いたことに順ずることだが、人間は肉体・精神それぞれに個体差が存在し、他の動物と比べても、それがかなり大きい。同じ種でありながら、物事の捉え方がまったく違うのである。
 このふたつの点から、もとより人間は、対話では互いを理解できない生物であると言える。話し合えば分かる、というのは妄想である。分かった気がするだけだ。


 古代バビロニアディンギルの塔(バベルの塔の元ネタ)が神の怒りに触れ、途中から折られた後、神は人間が一致団結できないように、その言葉を乱したという。これが世界に複数の言語が存在する始まりなのだが、つまりそれ以前は、世界中のどの地域、どんな環境に住んでいる人間にも通用した超言語が存在したことになる。その言語なら、あるいは…。(もう続かない)