風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その180+347)

『現行の法を無視した要求は、公の場ではけして通らない。それがどんなに同情を誘う理由があろうともだ。それが裁判というものであり、法の厳正さと平等である』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 幻をいつも、愛している。(挨拶)


 昨晩から降り続けて雨。朝は一旦やんでいたが、日中はまた降り出した。夕方前には上がり、徐々に晴れ渡る。月も出ていた。銀杏の葉が徐々に黄色く染まりつつある。もう秋だ。
 朝、たまたま流れていたテレビ番組で、あるコメンテイターがおかしなことを言っていた。
 まず彼は、法務大臣死刑廃止論者であろうと、その職にある限り、規定の日数以内に死刑執行の書類に判を押さなければならない。それが法を遵守するということであり、法治国家を治めるということだ、と主張していた。
 その後に流れたニュースは民事時効が成立した殺人犯に対する損害賠償請求権に関する裁判のニュースだった。どうもこの犯人はすでに老人らしく、年金で暮らしているらしいのだが、彼はそのことについてこんなことを言っていた。いくら時効だからってね、殺人者が年金で暮らしてるなんて、あっていいんですかね?、と主張していた。


 ……いいんですかね?、もなにも、時効は法で定められた権利なのですが?何、言ってんだ、この人?(ちなみにお昼どきの顔役とも言えるアノ人ですけどね)


 何の事件について言っているかは、すぐに判ると思うので、一応それぞれの事件について風鈴製作者の考えを述べると、奈良の養女殺害事件の裁判については妥当だと思っている。また後の方については、このまま控訴しても勝てるわけがない、原告は自分たちだけ特別扱いしろと言っているに等しい。このくらいだ。