風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その172+347)

『理想が叶う予感に捉われたとき、人は“神”を感じる』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 あくまで予感。(挨拶)


 晴れのち曇り。思ったほど暑くはなかった。しかし南風は吹いていたので、日本海側は場所によっては暑かったかもしれない(フェーン現象)。
 たまに他人のプライベートに踏み込んだ挙句、自らの好まない生活スタイルを見つけた途端に、攻撃しだす人がいる。まあ大抵は、将来がどうしたこうしたという類の言葉をのたまうのだが、言っている本人にはまったく関係のないことであるにもかかわらず、どうして放っておけないのかと不思議に思う。
 キミのためを思って言っているんだ、という老婆心も、まったくないとは言い切れないが、しかし結局のところ彼らの主張の中心を占めるのは、自分に従え、という思惑だろう。それは、そういった主張を向けるのは軒並み、自分よりも立場が下の人間に対する場合にのみ、限定されていることからも明らかだ。本当に人のことを心配しているだけなら、同等以上の人間にも忠告するはずである。


 なによりも、キミのためを思って、というなら、自由にさせておくのが自然な流れだろう。それが他人を尊重するということだ。その結果、その他人が生活苦に陥ろうとも、悔やむ必要はまったくない。本当に自由にやりたいことをやっているのならば、その他人は苦でもなんでもないはずだからだ。