風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その166+347)

『教育によって才能が開花する?いや、そうとも限るまい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 べ、別にアンタのことなんか好きでもなんでもないんだからねっ!(挨拶)


 しとしと雨。どうもしばらくはこんな感じの天気らしい。さっき天気図を確認したが、まあ妥当な予報。涼しいので文句はない。早く冬になればいい。
 学校にしろ、親の教育にしろ、その多くは子供に現行の常識を擦り込み、彼らが社会に適応できるようにするためのものである、というのが一般的だ。しかし風鈴製作者はまったくそうは思っていない。そんなことをしなくても、子供は自らの安全を確保するために、勝手に社会に適応すると思うのだが……まあ、そんなことは今回の趣旨とは関係ないので割愛。
 ある一時代における常識を擦り込む(押し付ける)のは、明らかに子供の自由な発想をせき止める、障害でしかないと思う。暗い色は陰気なもの、歌は音を綴るもの、部屋はキレイに片付けるもの、生きていることはそれだけで素晴らしい、味は甘辛酸塩苦旨の6つしかない、etcetc…。こういったことを押し付けることにより、大人は自分たちの領域(世界観)を広げたつもりになって安心し、子供の自由さは奪われてゆく。
 ある程度の、正確な観測による事実に基づいた常識を教えるのは確かに必要だ。しかし常識とされているほとんどは、昔からそういうふうに言われているから、とか、みんなそうしているから、というものだ。身の安全のためにはそれに従っているフリをしていればいいだけで、別にそれに心酔する必要はない。未来への可能性を狭めるだけだ。


 ちなみに、ある一時代における常識、と書いたが、では人類普遍の常識とは存在するのかと言えば、あるにはある、と答えよう。――――本能に基づいた素直な感性、である。常識なんてそんなものだ。


追記
 ツンデレ、って当初の定義からかけ離れてるよね。最近そう言われているのって、他人のうちはツンケンしてて、お互い好きになったらデレる、って感じじゃない?…それって当たり前の変化だよね?