風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その140+347)

『〜〜はこうあるべきだ、という考えは一般性に基づいたものではなく、あくまで個人の願望であることがほとんどだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 キミをもっと好きになる。(挨拶)


 曇りのち晴れ。そろそろ限界が近い(なんの?)。本格的にひきこもりたいのだが、しかし現実が(正確には近未来への不安が)それを許さない。人生とは斯くも苦しい(大げさ)。
 ジェンダーフリーの問題点が言われ始めてしばらく経つが、聞いている限りではその問題点とやらが正しく指摘されていることはない。アレの問題点とは男女性差改善への程度の問題ではなく、そもそも意図してそういった改革を行おうとすること自体が不自然だと思う。
 そもそもジェンダーフリーとは、“意識的な”性差別による格差をなくすことが目的だったと思う。ある意味で、自然で素直な、その場の時流に乗った、自由な人間性の選択を認めるための概念だったのではなかろうか?ならば、“意識的に”男女の差をゼロにして、根底からそれぞれの違いを無視することは、その概念に反することなのでは?


 人間は、存在する場所に応じて自分の役割を把握し、最も得になる人間性を選択すればよい。人間はそれができるからこそここまでの社会性を築いたのだ。男らしさ、女らしさなど、些細なことだ。そもそもそんなものは誰にも規定できない、脆弱なものでしかない。戯言に等しい。