『原因となったものに全ての責任がある?そんなバカな!』
※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。
その威力、まさに徹甲弾!(挨拶@パパ〜☆)
日中は雨。夕方前には晴れたが、しかしそのせいで猛烈に湿度上昇!しかし日が沈むとさほどでもなくなった。
どんな出来事にも原因はあるもので、その出来事によってなんらかの損害が起こった場合、大抵はその因となった人物、あるいはモノに責任を取らせようとする(例えば、冷蔵庫が壊れて食べ物が腐ったら、冷蔵庫は廃棄されるか、矯正(修理)される)。
しかし、以前に同様のことを書いたが、物事の原因とはけしてたった一つのものではありえない。無数の意思といくらかの偶然が作用し、事象は起こるのである。ゆえに責任というものは、それに関わった全てのモノに存在するわけで、本来ならば全体で損害を補填するのが合理的だ。
だが実際には、全体の中のごく一部、あるいはたった一人に責任を取らせる場合がほとんどだ。その方が全体としての損害も小さいと思い込んでいるし、なにより他の多数が何の痛みも感じないで済む。ただそれだけのために責任を押し付けるのである。
結局のところ、責任とは、生贄に捧げられるモノへの名札のようなものである。弄られるモノの存在を示しているだけで、その本質はどこにもない。ただ、それが存在すると思い込むことによって、みんなが納得する。それだけのものだ。