風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その129+347)

『本を読む、ということは、文章の意図を読むということである』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 え?『ネウロ』って、あかねちゃんがヒロイン?(挨拶@ヒロイン集合表紙)


 やや曇りがちだったが、晴れた。蒸し暑さが最高潮。しかし台風が接近中。時期的にもアレだが、進路も、ほぼ真っ直ぐ本州へ向かってくるという、珍しいコース。明日は雨らしい。
 数学は論理的思考力を養うことができる。対して国語とは、本来、想像力を養うとものものであったように思う。
 文章とは多くの場合、言いたいことがそのまま、的確に書かれているわけではない。どんな種類のものであろうと、少なからず文章の裏を読み取り、解釈をしなくてはならない。日本語は、この傾向が特に強い。かなり想像力が入り込む余地のある言語である(それを、言語として貧弱、ととるかどうかは人それぞれだが)。


 よくしきりに、本を読め、と言う大人がいるが、ただ本を読みふけることにはあまり意味はない。せいぜいが実感性のない知識を詰め込むことが出来る程度だ。思考し、無数の解釈を生み出すことが重要だ。