風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その100+347)

『与えられるべきは機会。しかしそれを無駄にする輩は守る価値なし』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 今度は胃が痛い風鈴製作者。…いよいよ老人宣言かっ!?(挨拶)


 曇り。日没後、雨が降り出したが、現状(18:29)、非常に微々たるもの。若干蒸すが、しかし涼しい。エアコンは要らない。
 今日はかなりキツイことを書く。みんな仲良く、を人生テーマにしている人は、お互いのために、読まないほうがよい。(退出口
 集団で活動する上で、たとえ頭数には数えられていても、活動効果としてマイナスにしかならないような人間は確かに存在する。いわゆる足手まといというヤツだ。そして、そのような存在になってしまっている原因は様々で一概には言えないが、しかし共通項はある。当の本人が足手まといになっていることに気付いていない、あるいは気付いてはいるがそれを認めていない、ということだ。そういった意味では、かなりの割合で本人に原因がある。
 しかしそれと同レベルで問題があるのは、足手まといに対する周囲の対応である。この国の社会通念では、たとえできない人がいても見捨てるのはいけないことだ、という考えが幅を利かせている。しかしこれは大きな誤りだ。能力もない、工夫もしない、努力もしない人間が擁護される、ということは、その真逆の人間の価値を貶めることになる。守られるべきは未来に価値を持った人間であって、自らそれを放棄している人間を擁護しなければならない理屈は微塵も無いのである。


 もちろんある程度、様子を見て、いい部分を探すことは大事だろう。そうしていないと、ときに誤って玉を捨ててしまうことがあるからだ(断じて、可哀想だから、などという理由ではない)。しかし見切りというものは必要だ。見切りを持たない集団は際限なく膨れ上がり、いつか自重に耐えられなくなるのだから。